佃煮の故郷を歩くー江戸創業の佃煮屋が並ぶ道り
 
 

大江戸線の月島駅で下車し、月島商店街を背に、佃大橋に向かう。橋を潜り左手に隅田川を見ながら川沿いに歩くと、10分弱で所謂「佃」という地域につく。佃というと、ここ十年来高層マンションが次々と立てられ、東京駅や銀座、近年開発の進んでいる豊洲などにアクセスが近く、かつ隅田川沿いで良い景観が楽しめるため、東京23区でも人気の高い居住地の1つである。地図上では清澄通り(都道463号線)、佃大橋通り(都道473号線)、隅田川、そしてその隅田川の派川で囲まれた四角の地域を指す。

その佃の中でも上述したマンションが林立する地域は、大川端リバーシティ21と呼ばれている。江戸時代後期から明治時代初期に作られ、日本を代表する重工業企業の1つである石川島播磨の工場跡地を再開発した居住地である。そこから隅田川の派川を挟んだ対岸は越中島だ。そして、そのリバーシティの脇に昔ながらの佇まいを残す地域が存在する。具体的には佃大橋通り、隅田川、そして隅田川の住吉水門から流れるL字型の支流(佃堀ともいう)とで囲まれた一角だ。

15分もあれば一回りできる程の小さい地域には、居酒屋や現代風の小さなレストランに混じり、佃煮屋を何件か見かける。いや、正確にいうと混じっている訳ではなく、隅田川沿いの100メールと程度の通りに、古い佇まいを残した古い佃煮屋が3件並んでいる。手前から「田中屋」、「天安」、「丸久」。いづれも江戸時代に創業したと言われる歴史自慢だ。普段は観光客らしき人々が多く見られるが、昔ながらの常連も多く、特に贈答シーズンや年の瀬になると活気づき、どの店にも訪れる人が耐えない。そしてここを歩いていると、1つ好奇心が湧いてくる。「なぜこの短い通りに150年を超える歴史を持つ佃煮屋が並んでいるのだろうか?」

「ここにある3件はどれも100年以上前から、ずっとこの場所で営業していますよ。佃煮の伝統を受け継いでいます。でも、3つの中でもウチが一番古いですね。170年以上前からやっていますよ。残念ながら、昔のように隅田川をはじめとした江戸湾界隈でとれる魚介類を使う、という分けには行きませんがね」と、ある店の店員の女性が、忙しそうな手を止めることなく答えてくれた。

佃煮の紀元は、300年程前まで遡ると言われる。徳川家康が江戸幕府を開いた際、当時の摂津国佃村(現大阪)から漁民33名を江戸に呼び、鉄砲洲の東、石川島に近い砂州を埋め立てて島を築き、住まわせた。漁民は故郷に因んでここを佃島と名付けたと伝えられている。漁民が来た正確な年は資料によって微妙に違うが、概ね1640年前後のようである。そしてこの地で白魚などを採り、煮詰めて調理したのが佃煮のはじめとされる。

3件ある建物の中でも、中央の店(天安)の店舗は、見た目からしてかなり古そうだ。店舗内で佃煮の仕分けをしている女性が語る、「昭和5年から6年あたりに立てられたと聞いています。第2次世界大戦の戦火も免れたそうですよ」。

現在は3件しかないが、戦前はもう少し佃煮屋があったという。様々な理由により廃業や移転をする店が出て、現在は3件になった。上述の通り、この3件はどれも非常に古い歴史をもつ。「なぜこの通りに集中して佃煮屋があるかは分かりませんが、理由の1つはこの通りがある一角は埋め立て地ではなく、昔からずっとあった土地だったことがあるのではないでしょうか。月島や、この通りのすぐそこの赤い太鼓橋から先は埋め立て地です。そこが埋め立てられたときには既にこの場所で漁業が行われ、佃煮のようなものが作られ、売られていたと言われています。ただ、昔はもっと店があったそうですよ。この一角は戦災にも地震にもあっていないので、戦後も店が残りました。ただその後、理由で店が移転したり、廃業したりして今は3件になってしまいました」と、ある店のご主人は語る。なお余談ではあるが、この通りは元々、すぐ近辺にある住吉神社の表参道だったということである。

少々話は逸れるが、上記にある佃煮屋のコメントで語られている「埋立て」は、1883年(明治16年)から1896年(明治29年)に行われた、一連の東京湾の佃島から先の砂州の埋立て(東京湾澪浚計画/工事)を示しており、江戸初期に行われた築島をさしている訳ではない。この埋立て工事により、1号地の月島(1丁目から4丁目)、2号地の勝どき(1丁目から4丁目)、3号地の勝どき(5丁目と6丁目)、4号地の晴海がつくられた。地元の人によると、佃煮屋が並ぶ通りの近辺が所謂、明治の埋立て前からある「佃」地域だということで、その支流にかかっている赤い欄干の「佃小橋」が新旧佃の境界になっているという。昔から住む人のなかでは、「あの赤い佃小橋からこっち側が、昔からある佃だよ」と言う人が多い。これら3つの佃煮屋は1800年代半ばに創業されているので、明治の埋立て前から存在している。

 


Photos by Urban Heritage Chronicle


隅田川沿いの通りには江戸創業の佃煮屋が数件並ぶ


この赤い橋から先が埋立て地。手前は
埋立て前の、昔からある「佃」


隅田川は昔は良い漁場であった。
漁業はできないが、支流には現在も船が並ぶ

 

 
 

また、もう1つ各店がこの場所を選んだ理由は、かつて存在した漁場へのアクセスが良かったということのようだ。今と違って当時、江戸湾は魚介類が豊富で佃煮も江戸湾から獲ってきた魚介類でつくられていた。大阪から来た佃の漁師と、以前からいた江戸地元の漁師との間での諍いが耐えなかったという話である。

余談になるが、前述の隅田川のL字型支流には現在も漁業組合所属の小さい現役漁船が何台か停泊している。その中の1艘でアサリ、もしくはシジミを大量に手荒いしてサイズを選別している漁師がいたので何をしているか尋ねたところ「うるせえ、おめえ見たいに遊んでいるんじゃなく、こっちは仕事しているんだ。いちいち相手にしてられねぇーよ」との返事が返ってきた。それはそうだろうと妙に納得すると、町内会の掲示板に、近隣の小学校の生徒が書いた、その漁船に関する作文が張り出されていた。ここも以前は良い漁場であったが、ヘドロ公害が進み現在では漁は行われていない。

さて、この佃の通りにある3件は全て佃煮業界を代表する老舗であるが、「どれが一番古いか?」、という議論は、あまり意味が無いようだ。どこの店の人に聞いても「ウチが一番古くからやっていますよ」という答えがかえってくる。ちなみに、この天安は天保8年(1837年)に創業している。この年は英国ではビクトリア女王が即位した年、日本では大塩平八郎の乱があった年である。ここにある3件はどの店も創業170年から180年の歴史を詠っており、想像するに店舗間での歴史的な差は殆どないに等しい。寧ろ特筆すべきは、この100メートル余の通り添いに江戸時代後期に創業した佃煮屋が、未だに3件並んで営業している点であろう。どの店も未だに現役で都民のみならず、日本全国の人々に愛されている。

その佃煮の味やレシピの詳細に関して語ることはは、このサイトの主旨と外れるので止めておく。ただ、佃煮が発明された当初のように隅田川近郊で取れた魚介類を材料にしていることは、現在はない。昭和30年代から酷くなったヘドロ公害により、一体の漁場は死んでしまった。今では浅蜊は中国から、シラスは山口県から、といったように全国から材料を取り寄せ、各店で受け継いできた素材の味が年数分しみ込んだ伝統の「たれ」を使って味付けをしているということである。

各店170年、合計で500年以上の歴史があるこの通りを、いったい何人の人が佃煮を求めて歩いたのだろう?葛飾北斎の富嶽三十六景のなかに、「武陽佃嶌」という、佃島と漁師を描いた美しい絵がある。富嶽三十六景が刊行されたのは1830年代と言われているので、ちょうどこれらの佃煮屋が描かれているのか、描かれていないのか微妙だ。いや、この絵の中に描かれている佃島にある数々の建物の屋根のうち、どの3つが現存する佃煮屋かだと考えるのがロマンというものだろう。

(2013年6月1日)

 
     
 
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