尾張徳川家の贔屓店と歴史を共にした椎の木  
 

東京から新幹線のぞみに乗り約90分、三河安城駅を通過したとのアナウンスが流れると、次の駅で降りる乗客が降りる支度をしはじめる。そして約10分後に到着する駅は名古屋。「市」としては日本で3番目に大きいこの街を中心とする愛知県はその昔、現在も地名として残っている三河、そして尾張に分かれていた。江戸時代が始まる前の戦国時代には主役を飾る武将達が生まれ、日本の中心ともいえる役割を果たしていた。そして現在は世界最大の自動車メーカーが本社を置き、日本の製造業の中心となっている。

名古屋駅で地下鉄桜通線に乗換え、2駅目の「丸の内」駅で降りる。地上に上がると東京の丸の内さながらオフィスビルが並び、その間をビジネスマンが通り過ぎる。しばらく歩いて昔ながらの問屋街を通り過ぎ、少しはずれた場所に歴史を重ねた佇まいの料亭がある。その入口は重厚感があり、ハイヤーはともかくタクシーでで来なかったことを少し後悔してしまう。ここは「河文」。寛永年間(1624年から1643 年)に創業し、尾張徳川家御用達として、主に武家を相手にしていたという料亭で、今でもその風格は充分過ぎる位に残っている。店の入口に控える葵の御紋が気後れ感を加速するが、店の方々は皆、運転手付きの車で来店する人も、地下鉄駅から徒歩で来る客も同様に丁寧に暖かく迎えてくれる。

「この店は清洲城から名古屋城に城替えしたころから営業している店です。オリジナルの建物は第2次世界大戦で焼失しました。現存する店舗は昭和25年に立てられました。新しい部分は、確か昭和47年に増築したものです。迎賓館の設計をした谷川先生の仕事です」と奥の個室に案内してもらう途中に、店の方が説明してくれた。藩士や町人が清洲から名古屋へ移住を始めたのが1610年頃で、1612年に名古屋城の天守閣が完成、1614年に本丸御殿が完成し、1615年に徳川義直が清洲城(注)から名古屋城に移ったとされているから、それから数えると、河文は約400年、名古屋開府から、名古屋城と歴史を共にしてきたことになる。

(注)余談ではあるが、最近復刻された清洲城の模擬天守は東海道線に乗り名古屋から岐阜方面に向かうと右側に見える。また徳川義直は徳川家康の九男で、徳川御三家の筆頭尾張家の初代藩主であった。

河文は河内屋文左衛門により創業され、当主は代々この名前を名乗っていた。創業当時から、かつては「魚の棚」通(または筋)と呼ばれる、現在の丸の内で営業してきた。当時「魚の棚」という正式な地名は無かったが、通りの両側に魚屋や料理屋が多かったため、このような俗称がついたと言われる。徳川幕府から明治時代に移った後も河文は中部地区の迎賓館的な役割を果たし、古くは、伊藤博文からはじまる歴代総理をはじめ、内外の賓客が来店する名店である。

さて、伝統的な造りの和室で食事が来るのを待っている間、綺麗な庭をゆっくりと眺めていると、奥に大木があるのに気づく。一瞬見ると街路樹と変わりなく、取り立てて注目することはないだろう。ところがこの木は河文と歴史を共にし、いくつもの苦しい状況をくぐり抜け、未だに元気に育っているそうなのである。「第二次世界大戦の時に唯一残ったのがこの大木です。この近辺は名古屋城に近かった為、全て空襲で焼けてしまいました。現在の建物は戦後に建てられたことを考えると、この木は河文の歴史を誰よりも長く見てきて、誰よりも知っていますね」と前述の店の人は言う。名古屋空襲は1945年の3月から5月が激しかったとされ、名古屋駅が炎上し(3月)、名古屋城が焼失した(5月)。

店の人によると、この木は少なくとも樹齢300年と言われているそうだ。300年前といえば年表上では、7代目徳川家継(1713年〜)もしくは目安箱の設置などの享保の改革で知られる8代目吉宗(1716年〜)、海外ではイングランド王国とスコットランド王国が合併し、グレートブリテン王国となった(1707年)。「この大木は椎の木です。一般的に椎の木は強いと言われていますが、この大木が経験したきたことを考えると、確かに強いようですね」と店の人は語る。椎(注)の古木は、大きいものは25メートルになるものもあり、中には樹齢800年といったものもあるようだ。

(注)椎(しい)と一口に言うが、ブナ科シイ属(Castanopsis)の樹木の総称である。

椎の木は伐採などにも強いと言われ、人間による軽微な攪乱があると、シイの純林に近いものが生じやすい。椎から落ちるどんぐりは食べることができ、昔から貴重な食料源となってきたようだ。恐らく、この河文の椎が戦災などを生き残ってきた理由は、この椎の強靭な性質によるものであろう。「実はこの椎の木はこの地域が空襲にあった際、建物と一緒に焼け焦げてしまったのです。その当時は皆、この木は死んでしまったと思いましたが、何とか生き残りました。そしてその後にまた枯れかけたのですが、そのとき植木屋が手を入れましたが、その手を入れた部分を嫌い、他のところからどんどん茂って現在のように元気になりました」。

 


Photos by Urban Heritage Chronicle


名古屋丸の内オフィス街のから少し入った
ところにある河文の入口。歴史と伝統感が漂う。


中庭の代わりになる石舞台を持つ池。
奥に見える古木が椎の木。


尾張家と歴史を共にしてきた椎の木。

 

 
 

少々脱線して料理の話になる。河文でいざ料理を注文するとなると、「徳川家が食したメニュー」や伝統的な江戸時代の料理に巡り会えるのではないかと期待するが、残念ながらそれらと出会うのは難しいようだ。「料理や味は時代と共に変わっていくので、残念ながら引き継いで現在のお客様に出すようなことはしていません。もちろん正月のおせちなど特別なときや、雑誌やテレビに頼まれたときに当時のものを再現したりすることはあります。ただ、通常お客様に出すお料理には余り残っていませんね」とのこと。また戦争や時代の流れの中で、河文に生き残っているのはこの椎の古木だけではない。店の庭にある井戸があるが、これはかつて名古屋城からここまで掘られていた、有事の為の秘密の地下道の入り口だった。

さて、名古屋の歴史は江戸時代最初の頃にさかのぼる。まず1609年、関ヶ原の合戦後、徳川家康が名古屋遷府令を発する。その翌1610年には名古屋城の建設がはじまり、また清洲から藩士・寺社・町人などが名古屋に移住してきた(いわゆる清洲越し)。その後1612年に天守閣が完成、1613年に清洲越しは概ね完了、1614年に名古屋城本丸御殿完成、そして翌1615年に徳川義直が清洲城から名古屋城に移動、明治維新を迎えるまで江戸幕府の徳川御三家の筆頭尾張家として栄えた基盤をつくった。

「この辺りは境川を境に三河と尾張に分かれるんです。でも、まあ三河と尾張は大体一緒じゃないですか。ここは昔から色々な人に支配されてきたんですね。昔は武田信玄、そして今川義元、それから徳川家康ですか。色々ありましたけど、やっぱり徳川家康には皆、良い思いを持っているんじゃないですかね」と語るのは、三河安城駅で乗ったタクシーの運転手。「そんな訳で、生き残る為もあり、戦国時代から三河武士は粘り強いと言われていたようですね」。

著者や詳しい成立年代が不明で、江戸時代以前に書かれたといわれ、日本六十余州についてその地勢とともに人情・風俗・気質を述べた『人国記』にも、尾張人は人一倍我慢強いとされる(注1)(注2)。この椎の木の強い体質は、そんな尾張/三河人の性質を受け継ぎ、我慢強く育っているのであろう。

(注1)人国記(岩波文庫による現代語訳版)には次のようにある:「尾張の風俗は、進み走るの気強くして、善を見れば善に進み、悪になるれば悪に染み、我が親しき者の善き事少しあれば、大分に能きように云ひなし、悪しき事あれども、それを異見を加へ、後来の過ちなきやうにとある志なくて、共に推し隠して人の日を揚げて、それが悪しきよりは軽きなどと談ずるのみにて、邪智・我慢第一強く、人を足下に見なし、人の善を消し、我が悪を隠すの類いにて、万事根の遂ぐる事なく、唯大風・洪水の出づるが如くにて、根にしまる意地すくなし。この国を治むるには処々に党多くして、地下人とも党を結び、我慢をさる事を尽くさずして傾くこと、日を経べきか・・・・・・・。」

(注2)研究者や作家によっては三河人と尾張人を明確に区別し、その2つの気質は正反対 ー 三河人は我慢強くで穏やか、尾張人は気が短く商売っ気が強い、という人も居るようである。参考に人国記に描写される三河人は以下の通りである:

「三河の国の風俗、気勝れて、人の長け十人に七、八人は伸びず。その言葉卑しけれども実義なり。人と物を談ずるに、その事遂げずと云うことなし。若し遺却する事あれば、その子細を理むる風俗にして、子は親を恥ぢ、親は子を恥ぢて、虚談する事を禁ずるといへども、偏屈にして、我が言を先とし、人の述ぶる所を待たずしてこれを談じ、命を終ふるの族多し。また自然と気質の邪僻すくなき人もあり。私心を知りて吾に勝る人あれば、諸人これを崇敬する形儀なり・・・・・。」

今年は桶狭間の戦いから450年と節目の年だったり、また関ヶ原の戦いから410年で、東京駅から大垣駅(名古屋から岐阜方面の電車で30分程度の関ヶ原の玄関口)間の線路の距離である410キロとあわせ、イベントが企画されたりしているようだ。もし、このような用事で名古屋方面に行くことがあれば、河文に立ち寄り、この椎の古木に尾張/三河人の強さがを重ね合わせ、尾張徳川が好んだ料亭の味をゆっくりと楽しむのもよいかもしれない。数々の危機を乗り越え根を張る椎の木が、混沌とした日本を立ち直らせるヒントをくれるかもしれない。

(2010年7月12日掲載)

 
     
 
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