鉄砲洲ー愛され続ける地名  
 

昔ながらの町並みが残る東京都中央区湊。2丁目から3丁目にかけて散策してみると、「鉄砲洲」なる文字があちらこちらから目に入る。公園や神社にはじまり、食堂や寿司屋、病院にいたるまで「鉄砲洲」を冠している。さらには「鉄砲洲」なるバス停まであり、はじめてこの地域に足を踏み入れると、ここが鉄砲洲という場所のように錯覚する。確かに良く見ると、バス通りは「鉄砲洲通り」という名前がついている。ところが、実際には鉄砲洲という住所は存在しない。東京都の特に中央区には、江戸時代の名残りがある地名が多く残されているが、鉄砲洲という名前は特に目を引くものの一つである。

この場所に来る為に一番便利な交通手段は、バスに乗り鉄砲洲というバス停で降りるか、地下鉄の八丁堀駅から5分少々歩く。地下鉄の月島駅からだと、佃大橋を使って隅田川を渡り徒歩で20分程かかるが、鉄砲洲を隅田川の対岸から見ることができる。初めて月島駅から鉄砲洲に向かったとき、道が不案内だった為、川を渡る前に佃周辺の交番で鉄砲洲に行く道を尋ねてみた。若い警官が「聞いた事ありませんねぇ」と言いながら丁寧に地図を調べてくれた。すると先輩の年配警官が来て、「佃大橋を渡って右側にある、湊周辺のことを鉄砲洲って言うんだよ。地図には載っていないよ」と教えてくれた。「昔は鉄砲洲という地名だったらしいんだ。理由は分からないし、なぜ地名が変わったのか、理由は分からないけどね」と親切に続けてくれた。

この近辺がいつ頃から鉄砲洲と呼ばれていたかは、明確ではない。いくつかの江戸時代の資料には鉄砲洲の記録が残されているので、そのころには既に鉄砲洲と呼ばれていたことは確かなようだ。現在では湊、もしくは築地寄りは明石町と呼ばれているが、今でも新しく建てられたマンション等に鉄砲洲という名前が冠されることがある。昔の資料には「銕炮洲」もしくは「鐵砲洲」など様々な記載がある。

「鉄砲洲という名前に愛着を持っている方が多いようですね」と、その理由を答えてくれたのは、湊2丁目にある和食屋のご主人(残念ながら、店の名前を出すことに関しては断られた。「以前雑誌に紹介されて人が殺到したので、店名は出さないでください。ウチは地元の方に食事を出すために商売しているので、雑誌やネットを見てお客様に殺到されると、毎日来店してくださる地元の人にご飯を出せなくなってしまうのです」という理由である)。

主人は続けた。「昔はこの辺り一帯を鉄砲洲と呼んでいたそうですよ。今は湊って呼んでますが、昔からの名残や懐かしさで鉄砲洲をいう名前を使いたがる方は多いですよね」。勿論この店の暖簾にも「鉄砲洲」の文字が目立たせてある。

時期もさることながら、何故鉄砲洲と呼ばれていたかも明確な理由は今ひとつハッキリとしないようだ。一つの有力な説は、この場所が大砲の試射場であったから。大正4年十月に発行された江戸時代史論(日本歴史地理学会委員編)によると、「徳川時代以前は高橋の舟口1つであつたが、さらに慶長に至つて新い舟入が、八丁堀に出来た。八丁堀の先は鐵砲洲、其時分の大砲の射的場であつたと云ひますが、如何にも事XXそうであったと思ひます。是は大阪の落城慶長十九年以前の話でありますXX様に八丁堀・鐵砲洲の形が出来ますれば、其先きの築地の出来る模様が推量でも分かります」とある。つまり、以前は舟口が高橋にしかなかったが、慶長年間(1596年から1615年まで)に八丁堀が舟入として出来、鉄砲洲、築地という順番で出来ていったということだ。

1165年の歴史があり、西暦1623年から現在の場所で鎮座する鐵砲洲稲荷神社(注)によると、鐵砲洲の名の由来には、堀岸と海に挟まれた埋立地の形状が種子島に似ていた、寛永12年(1635年)に大筒をつくって幕府に納めていた井上氏と鉄砲方をして仕えていた稲富氏が大筒や鉄砲の試し撃ちをした場所、もしくは海岸に沿って鉄砲のような形の町に見えた、等の諸説があるようだ。同神社によると、「徳川家康が入府した頃には、既に鐵砲の形をした細長い川口の島であり、今の湊町もしくは東部明石町が該当する」とある。そういえば、先に紹介した和食屋の暖簾にも、「築地 鉄砲洲」と記されている。

鉄砲洲に関しては、江戸時代に残された、「江戸名所図会」や「江戸景観図屏風」などの有名な書物や絵画にも多くの記載が残る。江戸景観図屏風にある「江戸湊入津の船」には鉄砲洲と佃島が描かれている。ただ、この辺りは昔から埋め立てが進められていたため、その様子も時代により微妙に違うようである。鐵砲洲稲荷神社に因ると、もともと八丁堀が掘られたのが慶長17年で、その後京橋地区の埋立てが進み、寛永元年には鉄砲洲と南八丁堀が地続きになったようだ。そして、鉄砲洲は江戸の海の玄関の役割を果たし、江戸で消費する米・塩・薪炭をはじめ多くの物資が鉄砲洲に入ってきたという。

(注)鐵砲洲稲荷神社によると、同神社は歴史の中で数度火事に会い、その度に資料が散逸してしまった為、上記のことを裏付ける資料は残っていないという。

また、「江戸名所図会」では、「銕炮洲は南北へ八町程度で、寛永年間(1624-44)のこ ろ、井上・稲富ら大筒(おおづつ)の町見(ちょうけん)を試みた、あるいは 出州(です)の形状が似ていた」と記してある。

このようにしてみると、出展は様々だが、様子は大体同じようだ。

さて、この地域の人は何故この名前に愛着を持っているのだろうか?日本人は歴史的な建造物を壊したり、概して歴史を重視しない傾向にあるようだが、地名は別なのか?その昔は、鉄砲洲川と呼ばれる水路もあったそうだ(現在は埋立てられた)。それとも、潜在的には歴史を誇りに思っているのか?いづれにせよ、鉄砲洲という名前は時代を超えて愛されているようである。100年後も200年後もこの名前が残る事を願う。

(2009年2月13日掲載)

 


Photos by Urban Heritage Chronicle

佃大橋の上からみた現在の鉄砲洲


中央区明石町から湊町の中心部を抜ける鉄砲洲通り


鉄砲洲と佃島(江戸景観図屏風から)
筑摩書房出版の「江戸 二・江戸時代図誌5」から転載
絵は津山郷土博物館が所有
(津山郷土博物館、筑摩書房の許可のもと掲載)
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