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山なれば富士、白酒なれば豊島屋〜江戸買物獨案内から | ||||
1824年(文政7年)に中川芳山堂という出版社が出した「江戸買物獨案内」という本がある。江戸の地理に不案内な人のために作成された案内書だが、開けてみると、当時の江戸は飲食店が多く、如何に賑やかな町だったか伺い知れる。その中の1ページにあるのが、白酒で有名な豊島屋。その後、1836年(天保7年)年に長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会』にも、越後屋三井呉服店(現三越)と共に登場している。右の写真は、豊島屋で保管している、「江戸買物獨案内」の同店に関するページである。 慶長元年(1596年)、神田鎌倉河岸に店を構えて以来、現在まで約400年間続く豊島屋は、現在、15代目の代表取締役社長の吉村隆之氏と、16代目の常務・吉村俊之氏が経営している。両氏共に強調するのが、「先代達が守ってきたこの400年の歴史を間違っても絶やしてはいけない」ということ。 両氏は若かりし日々、別の道に進むことを考えていたという。「実は、私は化学の道に進みたかったのです。慶応大学を出た後、京都大学で博士号を取り、化学を専攻していました。昭和27年から、店に帰ってくる昭和46年まで化学の研究所にいました。最初は帰る気なんてありませんでした。でも、父から『長男なんだから、帰って来い』と言われ、3年間悩みました。最後は、やはり古い歴史を絶つ訳にはいかないという思いから継ぐことにしました」と、隆之氏は語る。 今でこそ転職は珍しくないが、当時博士号まで取得し、20年近く化学を研究した末に酒屋になるというのは、家業といえど珍しい。「実は長男の常務(俊之氏)も同じです。京都大学で博士号を取り、約20年間、日立の中央研究所で働いていました。ICの技術者だったのです。私と同じ3年掛けて口説いて、店を継いでもらうことにしました。さらに言うと、14代の私の父は、東大を出てから富士銀行で働いて、そして店を継ぎました。まあ、もっとも養子だったのですが」 別の道から豊島屋を選んだ理由は、はっきりしている。江戸時代に繁栄し数々の書物に紹介され、今でも業界のリーダーとして日本の食文化を担う豊島屋を未来もずっと続けるためである。「歴史を絶やしたくないのです。だから継ぐのです。でも、歴史は重いですよ。400年における私の役割は、続けなくてはならないということです。前人の積み重ねは続けなければなりません。歴史は一朝一夕にはできないのです」 豊島屋と言えば白酒。江戸時代に豊島屋の名を上げた白酒は、もち米、米麹を味醂に仕込み、石臼で擦った白い酒で、3月3日の雛祭の時期だけ販売される。見た目が同じようなので間違われることも多いようだが、甘酒と白酒は全く違うものである。甘酒は飯米から造り、アルコールが入っていない。白酒はもち米から作り、アルコール分が10%程入っている。白酒は昔から作り方が殆ど変わっていない。「もち米に麹菌を入れて、味醂に仕込みます。そして、石臼で摺っています。石臼で摺ると、きめが細かくなり、沈殿が遅いのです。飲んで、舐めるような感じです。機械で摺ると、直ぐ沈殿します。これが他社で作る白酒との違いです」と、社長は言う。昔は白酒で栄えたが、現在は売上の殆どは蕎麦屋への酒、味醂、醤油などの卸売から得ている。 |
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Photos by Urban Heritage Chronicle
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400年の歴史の中で、豊島屋は3回、危機を経験している。最初は廃藩置県のとき。「武士が平民になってしまいました。武士は代金を1〜2年に一度まとめて支払っていたので、廃藩置県の後、支払ってもらえず、店が傾いたそうです」。そして2回目は関東大震災。豊島屋の店舗は瓦礫になった。そして3回目は第2次世界大戦。「当時神田橋にあった店が無くなりました。帳面や帳簿も全て焼失しました。戦後、神田橋はGHQが占拠したので、昭和22年、戦前住居であったこの場所にバラックを建てて商売をはじめました」 その後昭和45年、現在の地にビルを建てた。そして豊島屋は現在、新しい波と戦っている。多くの酒のディスカウント店と、どうやって戦っていくのか?「確かに値段競争は激しいですね。でも、お客様と良く話すことが大切なのです。正直に言うと、暖簾は全く武器になりません。暖簾で買ってくれる程、最近の客は甘くない。蕎麦屋も経営がそれ程楽ではありません。まだ少ないですが、蕎麦屋によっては、大学を出てから継ぐ人なんかもいて、彼らは勉強しているから、数字を重視して取引先を決める人もいます。するとディスカウント店は強いですよね。義理より数字ですから」 そんな中、豊島屋では今でも、昔でも「お客様第一、信用第一」をモットーとしているという。他の企業同様、ITを取り入れたりしているが、基本は信用第一。「蕎麦屋とは戦前からの付き合いがあります。2代、3代と付き合っている蕎麦屋は多いですよ。お客様との長続きの秘訣は、誠実さでしょうね。お付き合いするうえで、誠実さということで大切なのは、腹を割って話せる関係を作れるかどうかです。お客様を裏切らない。値段だけ安ければ良い、ということではないのです。常にお客様とコンタクトしている。御用聞きというか、値段の安い高いだけではないのです」 ブランドは商売の武器にはならないが、社員のプライドを刺激するには非常に大きな役割を果たしているという。「暖簾は社員にとってはとても重要です。社員のプライドになる。お客も代々継いでいるところが多い。取引先を先輩から引き継いだ若い社員は、『自分の代で絶対に絶やしてはいけない』という気持ちになるのです」 そして最後に16代は語った。「自分の役割は、後代にバトンを渡すことだと思っています。しかし、企業にはある程度の持続的発展が必要と思っています。ですから、今後もある程度の成長は目指さなければなりません。ただし、絶対に守らなくてはならないのは短期的な利益は追求せず、分をわきまえ、中長期的に存続できるような企業にすることですね。M&Aなどは企業文化が変わるので、できればやりたくない。私は、変えてはいけないものは、信用とお客様だと思っています。そして、変えなくてはいけないことは、売り方やお客様への提示の仕方ですね。その一環として、インターネットでのお客様獲得を模索中です。実際やりはじめていますが、商圏がひろがり、北海道や九州、沖縄、海外からの注文があります」 豊島屋は今でも、江戸時代を時代設定にした小説に頻繁に出てくる。数百年後、さらに近代化したメトロポリタン東京で、子孫が豊島屋の白酒を舐める姿を想像しながら、この絵を見ていた。 (2007年2月25日掲載) |
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