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清澄長屋と清澄寮〜戦火を潜り抜け、深川を見守る | ||||
平賀源内や松尾芭蕉が居を構えた、歴史ある町、江東区深川。江戸を代表する下町の一つで、人々は「いき」であることを大切にしたという。明治時代には東京の区名となり、戦後まで東京市深川区と呼ばれた。域内には有名な富岡八幡宮をはじめ数々の由緒ある寺や、江戸時代に造られた運河などが残っており、歴史の深さを感じさせる。その深川にあり、東京都の指定名勝である清澄庭園の東側に、今では珍しい長屋形式の住居が建っている。清澄通りに沿いにあるその住居は通称、清澄長屋と呼ばれる、80年以上も前に建てられた住居だ。 歴史保存というジレンマを抱えながら、安全確保などの理由で、日本の古い建物は建て替えられる傾向にあるようだ。かつて表参道のシンボルだった同潤会アパート。単なる住居としてだけでなく、その古びた雰囲気を好む若者が店舗に使用したりと、同地の名物の一つになっていた。そのアパートは数年前に再開発され、今は豪華なファッション・ビルに変身した。関東大震災後に国策で設立された財団法人同潤会は、これ以外にも複数のRC造アパートを戦前に建設した。その多くは70年、80年の年月が経ち、安全上の理由で取り壊されている。 古い建物に対する風向きが決して良くない中、ここ数年、清澄長屋に数々の洒落た店がオープンしている。その一つが数年前ここに移ってきた喫茶店、「Sacra Cafe.」。清澄長屋の造りを生かした雰囲気が、平日の日中でも多くの客を惹きつける。元々世田谷に住んでいたオーナー夫妻は、偶然この場所に辿り着いたという。「下町が好きで、カフェのための建物を探していました。80年の歴史があると聞いていますが、古い雰囲気と、アールデコ調の外観が非常に気に入っています。最近は我々以外にも、モダンな店が増えているみたいです」と語る。長屋に沿って清澄通りを歩いてみると、ギャラリーなどが目に付く。 1928年(昭和3年)に建設されたこの建物は、三菱財閥系企業の保養地として作られた清澄庭園の裏に位置している。都電が走っていた頃は電車通りと呼ばれた現在の清澄通りに沿っており、商売をするには非常に地の利が良い場所で、昔は随分と賑やかだったそうだ。2階建てで1階を店舗にして商売ができるように設計されており、6〜7世帯が一続きで、合計48世帯分が横に並んで建てられている。戦前から今までずっと住み続けている人も数人いるそうだ。 この建物の特徴は、何よりも頑丈なところにある。第二次世界大戦の終わり、1945年3月10日に行われた東京大空襲では、深川に米空軍からの第一弾が打ち込まれ、ここは火の海となり、焦土と化した。「それでも、この清澄長屋は大丈夫だったようですよ」と話すのは、ここで日本茶を販売している店舗の方。「ご覧の通り、清澄長屋は途中で折れ曲がっています。門前仲町側は外側は大丈夫でしたが、建物の中は燃えたそうです。こちら側は、外も中も大丈夫だったと、ウチの主人は話していました。清澄通りの向こう側から人がこちらに逃げてきたそうで、ガラスが熱すると良くないので、皆で濡れ雑巾を窓に貼り付けたそうですよ」 戦火は酷く、この方のご主人が空襲後、両国駅に立つと、そこから清澄長屋を見ることができたという。この建物は、そんな激しい戦火を生き残る程、頑丈だった。「関東大震災のあと、防災用に造られた建物だそうなので、頑丈なのでしょう」。同じくここの和菓子屋の方の話によると、内装を改築した際、構造の余りの頑丈さに相当手を焼いたという。1階を店舗用、2階を住居用に設計された長屋は、当時珍しいRC構造で建てられ、地下室も備えている。 そんな清澄長屋にも近年、他の古い建物同様、取り壊しの話が出ているという。「数年前でしょうか、東京都がここを公園にする計画を立て、立ち退きを要求してきたのです。皆で集まって反対しましたよ。でも、何人かは売却してしまいました。そこが虫食いになって緑地となっているのです」と、印章屋の方は話した。この長屋の所有権は既に住民に移されているが、それ以前は東京都の公園計画地に入っており、都は立ち退きを求めている。「戦後嫁いで来ましたが、ここは便利ですし、狭いですが愛着もあります。ずっと住みたいですね」と和菓子屋の方は語った。 場所は変わり、19世紀後半から欧米諸国の進出が進み、コスモポリタンとなった中国・上海。最近その上海に新たな観光名所、「新天地」が現れた。何でも100年以上前に建てられた住居を再利用して作られた街だそうだ。パッとみると、その洒落加減は、中国というよりも欧州の街なのでは無いかと錯覚する。この古い住居は「石庫門」と呼ばれる、長屋の上海版のような建物である。 |
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Photos by Urban Heritage Chronicle
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「これらの建物は100年前に建てられたと聞いています。街並がとっても洒落ていて、海外からの観光客やビジネスマンが多く訪れますよ。何よりも歴史と現代が融合したこの場所をとても誇りに思っています」と、新天地にある仏料理店のマネージャー、Dior Wangは流暢な英語で話す。石庫門は19世紀位から建てられ始めた上海を代表する建築物。以前までは壊され、新しいビルに立て直される傾向にあったそうだが、近年、上海市が、歴史的建築様式の保存事業を行っている。新天地もその一環である。 古い建物に対する価値は、安全性と歴史保存という天秤に掛けられ、どの国でも常に揺れ動いているものなのかもしれない。ただ、一つだけハッキリしているのは、壊すのは簡単だが一度壊れたものは2度と元には戻らない、ということである。 再び深川に戻り、清澄白河駅近辺の不動産屋を訪ねてみる。「深川近辺には、以前は古い住宅がもっと多くありました。でも、どんどん壊されていますね。長屋以外にも『清澄寮』はがんばっていますよ。70数年前に建てられました集合住宅ですが、空きを待っている方が非常に多いです。オーナーの方がタイミングよくリノベーションしているので、良い保存状態が保たれていると聞いています。何でも、オーナーの方の意向で、全部屋、内装が違うようですよ」 清澄白川駅から直ぐ、清洲橋通りにある4階建ての黄色い建物。店舗として利用されている1階の中心に「清澄寮」の大きな表札が見える。訪れたその日は玄関先で何やら工事をしており、寮のオーナーである女性が立ち会っていた。「この建物は、私が祖父から譲り受けたものです。確か、昭和7年か8年にできたと聞いています」、とオーナーは気さくに話はじめてくれた。 「一番古い人は、昭和17年から住んでいますので、かれこれ60年以上になるでしょうか。住人は昔から住んでいる人や、若い人もいますよ。職業も様々ですね。なるべく新しい人に入居頂きたいのですが、ずいぶんとお待ちしていただいている方もいて、申し訳ないですよ」、とオーナーの女性は続ける。 工事の対象となっていたのは、玄関の壁に埋め込まれている、モザイク状のタイル。これが非常に珍しいものだそうで、オーナーには、写真の撮影も「どうかご遠慮下さい」と丁寧に断られた。この装飾物は、清澄寮が完成してからずっとあるもので、一つ一つ非常に細かいタイルを手で張って作った、二つとみられぬ素晴らしい芸術品だ。 この清澄寮も、戦火を潜り抜けて生き残った、貴重な建物の一つ。見るからに非常に頑丈なつくりをしている。また、前述の不動産屋によると、この一帯の土地は殆どが寺が所有するもので、借地権により土地が提供されているそう。「借地権といっても旧法なので、清澄寮は、長屋のようにはならないと思いますよ」と不動産屋は話す。 今年は3年に一度の深川祭、本祭りの年。江戸三大祭の1つに数えられるこの祭りに、深川の町は盛り上がっている。「永代通りには神輿が55基並ぶので、それはもう壮観でしょう。特に商店街の人は皆、年初から浮き足立っていますよ」と、前述の和菓子屋の方は語る。清澄長屋が並ぶ清澄通り沿いにも、20数基、神輿が並ぶという。単純な割算で考えると、これら清澄の古い建物は、二十数回の深川祭を見てきたことになる。次回は2011年、そしてそれ以降、これらの建物は、あと何回のを本祭りを見守れるだろうか。 (2008年7月15日掲載) |
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