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財産は残せないが、暖簾は残せる〜壺屋と最中 | ||||
東京・本郷にある和菓子屋、「壺屋總本店」。寛永年間に創業され、400年近い歴史を持つ菓子屋である。「江戸買物獨案内」にも掲載があるが、江戸時代は元飯田町中坂と、芝の西久保、そして現在も残る、ここ本郷の3店舗が存在した。ここで有名な製品は最中。壺屋では、割りと作り方を変えず、伝統を守っている。「約400年やっていますが、結局、良い物しか残らないのです。イチゴ大福など色々と新しい菓子もありますが、400年後に残っているか、分かりませんよね。最中は淘汰された結果残ったものです。昔の人は本当に良く考えていました。だから皆様に支持され、今も最中は残っているのです」と、惜しまれて他界された、先代17代目の入倉芳郎氏は語っていた。 はっきりと確認できる訳では無いようだが、最中は、江戸時代に作られはじめたと言われている。壺屋の最中は当初、煎餅のような平たい皮に餡子を入れて、最中としていたと言う。「皮が硬いので、窓の月なんて呼ばれていました。最中はつきたてよりも、時間をちょっと置いた方がしっとりと馴染んで美味しいんですよ。勿論、つきたてのパリパリしたものの方が好きな方もいらっしゃいます」 入倉氏によると、屋号の由来は、昔砂糖を壺に入れて保存していたから「壺屋」になったとのことである。「江戸時代には、黒砂糖でお菓子をつくっていました。当時は、いかに砂糖のアクを抜くかが各店の秘密でした。ウチでも長芋にまぜて、アクを吸着させるといったことを独自技術としてやっていたそうです。実は壺屋の由来も砂糖から来ています。砂糖を壺に入れて保存してたから壺屋という名前になったと、元禄時代の本に書いてあります」 壺屋は日本の菓子史の中において、重要な役割を果たしている。まずはその創業の背景に関して。当時江戸にあった菓子屋は京都から移ってきていた。そして、江戸の町民により開かれた初めての菓子屋が、壺屋だったというのである。「寛永年間(1624年〜)の創業です。ただ、そのころの資料は菩提寺が焼失して残っていなく、創業したということ以外分からないのです。壺屋は、江戸町民が和菓子屋になった最初の店です。それ以前は、皆上方(関西)から職人が来ていました」。現在の当主は、資料が残っている元禄から数えて、18代目ということになる。 そして江戸時代から明治時代にかけて洋菓子が日本に入ってきた際、最初に取り入れたのは壺屋だったそうである。「一般的には別の店が最初といわれていますが、壺屋はあまり洋菓子職人を育てなかったので、洋菓子としての壺屋は知られていないのです。実はその別の店の職人が壺屋で洋菓子を勉強したという記録があるのです。その人が、その別の店を興しました。ただ養子になって苗字を変えたので、調査に時間がかかりました」 そして壺屋は、現在は大企業になった有名な製菓企業の発展にも関わっていたそうである。入倉氏によると、その店は東京虎ノ門で2壺の店をオープンし、最初の取引相手が壺屋だったそうである。そして2坪とかけて、壺2つがロゴマークになった。現在の有名なロゴになったのは、その後のことである。 壺屋は時代の先を見て菓子作りを行ってきた。ところがその一方で、最中に関しては伝統の味を守る為、今でも江戸時代から割り(材料の配合)と作り方を変えていないという。 |
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Photos by Urban Heritage Chronicle
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昔と今では砂糖の材料が違うが、割りは同じ。最近は甘みを控える菓子が多くなったが、割を変えると全て変わってしまう。壺屋の菓子は質の良い粗目の砂糖を使っているため、アクが少なく後味が良い。そして、昔から行われているよう、全て手作りで行っている。「先代から絶対に手抜きをしてはいけないと言われてきました。後代にもそう伝えています。手間隙を掛けて、全て手作りです。但し技術の習得は厳しいですよ。ウチの職人は中学を卒業して直ぐ、集団就職で田舎から来た人を鍛えた職人達です。最初2-3年は店に立ってもらう。そこで、客が何を注文するのか、どんなものが売れるのか勉強してもらう。その後2年間工場で下働き。中職(菓子作り)は5年後からです」 米に関しても細心の注意を図っている。皮は餅米100%で作られる。「餅米は、餅米の稲だけ植えて、囲まれた田で栽培されます。ところが、うるち米の花粉が飛んできて、知らないうちに、うるち米の稲が混じって育つことがあるんです。昔は餅米の水田から取れた米を一握り掴んで、ヨードチンキを掛けてました。澱粉質が違うので、うるち米は色が変わります。一握りで3粒以上色が変わった餅米は使いません。うるち米は芯が残り、硬いのです。煎餅に使っていますが。最中は餅米でなければダメです。食べた際、上顎についたりしてしまうのです。残念ですが、今はこのようなことをする職人も居なくなりました」 壺屋はその4世紀に渡る歴史の中で、2回危機を経験している。1度目は明治維新の後。入倉氏によると、当時は壺屋を含め、多くの和菓子屋が徳川家を得意先としていた。「明治維新で九州や関西から人が流れてきました。当時の言葉で呼ばれた『下ってきた人』に品物を売るのは徳川様に申し訳ないということで、閉店していったお菓子屋が多かったのです。ウチも一度辞めました。ところが、お得意様であった勝海舟先生が、『新しい時代になって、皆、壺屋のお菓子を食べたがっている。店を再開するように』と言われ、店を再開しました」 そしてもう一つの危機は、第二次世界大戦の後。戦争中は材料がなく、店を閉めていた。戦争後は、贅沢なものを扱う和菓子屋は店を開けられなかった。結局、壺屋は昭和18年から24年まで6年間商売を止めざるを得なかった。「このころ、私は学生で一番お金がかかる年齢でした。先代はこの時代に蓄えを吐き出しました。従って、戦後全て焼けた店舗をここに移し開店したときは、店は小さくなってしまいました」、と17代目は語っていた。 現在壺屋を支えるのは常連客である。「特にお茶の先生との商売は大きいですね。お稽古用と、お茶会用。お稽古用は特に大きく、毎週(毎回)別のお菓子を持っていきます。お客様に『おいしかった』という言葉を頂くのが一番の喜びですね」。客層は概して高齢化してきているという。壺屋は広告を出していないが、取材は受けている。従って、口コミや、雑誌や本を読んで来る若者、そして外人も増えている。 壺屋を継ぐ代々の当主の役割は、暖簾の重さをいかにして後世に残していくことだという。17代目は、「私は消極的なのかもしれませんが、お金を貯めるより、美味しいものを作れ、お客様に喜んでもらえ、ということでず。これが長続きの秘訣でもありますね。財産は残せませんが、暖簾は残せます」、と語った。最近では跡取りに苦労する店が多いようだが、壺屋では18代目が継いでいる。 今は亡き17代目は、当初はこの店を継ぐ気は余り無かったと言っていた。「実は最初は嫌だったのです。化学を専攻していまして、その道に進みたかった。でも、男兄弟は1人で、父からの頼まれました。今は継いで本当に良かったと思っていますよ。暖簾は直ぐに出来ないでしょう。何百年もかかるのです。京都に大好きな奈良漬の店があり、そこの主人が先日私に言ったのです『やっと100年になりました。ようやく老舗の仲間入りです』うれしかったですね」 (2008年3月10日掲載) |
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