寿司のルーツを訪ねて  
 

今や寿司は、日本人にとって人気がある食べ物というだけでなく、外国人にとってもグルメの代名詞となっている。欧米都市のグルメランキング上位に寿司屋が載るのは、そう珍しいことではなく、「sushi」は世界中で通じる言葉となった。但し、ここで言う寿司とは、酢飯の上に薄切りの生魚を乗せて握られた、所謂握り寿司のことである。正確に言うと、寿司は握り寿司だけを意味する訳ではなく、様々な種類がある。握り寿司は江戸時代後期、1800年過ぎに出現したと言われる、寿司の1つの形態。そして、寿司(注1)の歴史の上では、一番若い部類に入る。

握り寿司と比較すると、神田小川町にある「笹巻けぬきすし」は、江戸における寿司の先輩になる。握り寿司が広く食されるようになる100年以上も前の元禄15年(1702年)に創業、当時はまだ保存食だった寿司を笹で巻いてアレンジし人気を得、江戸3鮨の1つにも数えられたという。現在でも、保存食としての寿司を出す店はあるし、弁当としてもよく売られている。ところが、300年間同じものをずっと出し続け、いまだに続いている寿司屋はそう多くは無い筈だ。

「うちの寿司は保存食として作られているので、強い酸味があります。残念ですが、誰もが好きな味ではないでしょうね。江戸前寿司とは随分と違いますよ」と語るのは、現在笹巻けぬきすしの暖簾を守る、12代目店主の宇田川さん。「そのような味なので、正直に申し上げると、いつまで続くかわかりません。江戸前寿司のように大勢のファンがいる訳ではありませんから。もしそうなら蔵の1つでも立っているでしょうし、我々のような寿司を提供する店がもっとあるでしょうしね。でも、300年間続いて来た、この店と味は何とか守らなければならないと思っています」

良く聞く話ではあるが、寿司の起源は東南アジアにあり、寿司は元々は保存食であったと言われている。そして日本で最も古い寿司は、魚を発酵させた「馴れずし」なるものである、というのが一般説のようである。そこから様々な形の寿司が派生的に出来た。その一つが、現在も大阪で広く見られる押し寿司(箱寿司)で、江戸中期の延宝年間(1673-80)に、乳酸発酵でなく、飯に酢を加えてることで発明された(注2)。握り寿司は、押し寿司から派生し、文政年間(1818-30)に江戸に広まったと言われる。

年表上では、笹巻けぬきすしが出来た1704年は、押し寿司が出来てから握り寿司ができるまでの間になる。戦国時代に笹に飯を巻いて持ち歩いたことにヒントを得て笹で巻き、さらに魚の小骨を毛抜きを用いて抜いたことから、この名前が付いたという。

「作り方も材料も、何も変えていません。但し、海は変わりましたので魚自身も変わっているとは思います。特別な材料はは使っていません。市場で全て調達できます。でも、笹は入手が難しくなってきていますね。元々は持ち歩き用でしたので、塩気と酸味はもっと強かったです。戦後は保存の技術も良くなり、これでも大分弱くなりました」と、宇田川さんは語る。

今ではこの笹けぬきすしは、神田・小川町の店しか残っていないが、宇田川さんによると、以前は都内に数店舗存在した。「もともと笹巻けぬきすしは、人形町に本店を構えていました。そしてそれ以外にも、虎ノ門、青山、深川にも店がありました。本店とこの場所を合わせて、合計5店程でしょうか。虎ノ門の店は平成になるまで営業していましたよ。人形町の本店は、戦争の際に世田谷に引っ越しました。私の曾祖父に当たる人が、本店の主人と兄弟関係にあったようです」

 


Photos by Urban Heritage Chronicle


笹巻けぬきすし。
持帰り用5ヶ詰め(1,050円)から
100ヶ詰め(21,315)円まで。
店内でも食べること ができる。


神田小川町にある笹巻けぬきすしの店舗


 
 

同店が現在の場所、神田小川町で商売を始めたのは、関東大震災で店舗が無くなった後。震災以前は昌平橋にあったが、区画整理により、この場所に移ってきた。第2次世界大戦では、幸い何を逃れた。「路面電車の向こうは焼けましたが、この場所は無事でした」。しかし戦後の商売は大変だったようで、握り寿司を作ったり、おからで寿司を作ったりして切り抜けたそうである。「握りは良く売れたそうです。でも、『これをやっていたら、笹巻けぬきすしは潰れる』と、私の主人(11代)の父が握りを止めて、笹巻けぬきすし専業に戻ったそうです。凄い決断ですよね。ずっと家族でやってきています。昔は出前専門だったようですよ」

店を訪れる客の多くは常連客。子供のときに食べた味が忘れられず、年を重ねてから店に戻ってくる客なども多い。以前はサラリーマンが一度に大きな包みを買っていくことが多かったが、最近はそれも減った。「朝に予約の注文が多く入るときは一日忙しいですが、そうでないときは、そこそこですね。でも大切なのは、お客様の期待を裏切らないために、店を続けることです。分相応のことを、真面目にやっていく。今やっていることを続けるだけで精一杯です」

笹巻けぬきすしは、調理した鯛、おぼろ、卵、海苔、光り物、白身魚を、酢と塩を強めにした酢飯で巻く。光物と白身魚は季節により変わる。光物は春はさわら、夏はアジ、そして秋と冬はコハダが主となる。白身は、青鯛、ワラサ、カンパチなどを使用する。魚類は3枚におろしたあと、塩漬けにして1日、そして強い一番酢で1日、その後骨を抜き、少し弱い2番酢で3~4日漬け、そこから必要に応じて切って出す。

このような特殊は寿司を出していたのは、江戸時代でもそう多くはなかったようだ。「ウチを合わせてもほんの数件、あるかないかだったのではないか、と聞いています。もちろん、最近ではウチだけですよ。皆が好きな訳では無い、特殊な食べ物なので、あまり広がらなかったのでしょうね」

飲食店業界は競争が厳しく、この界隈にも新しい店が出来ては消え、消えて出来ている。「ウチも決して楽ではありません。ここはサラリーマンが多いので、お昼の時間だけでも汎用的なメニューを出そうかと思ったことがあります。でも、昔からのお客さんが、『ここにいると時間が止まっているような気分になる。このままで残して欲しい』とおっしゃるのです。なので、このまま続けるしかありませんよね」

跡取りの13代目は既に店を継ぐことになっているという。「苦労もありますが、皆この歴史を絶やしたくはないのです。先代からは、『はじまるときもあれば、終わるときもある』といわれています。歴史は重いですが、気負わずに、続けていきたいと思っています」

注1)「すし」には、「寿司」「鮨」「鮓」など様々な漢字が使われるが、ここでは「寿司」を使う。
注2)松下幸子千葉大学名誉教授による歌舞伎座「江戸食文化紀行」から、(株)歌舞伎座の承諾のもと出典

(2007年9月12日掲載)

 
     
 
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