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小伝馬町の台所、魚十に見た、江戸っ子の心意気 | ||||
江戸最古の食もの屋として紹介されることもある、日本橋小伝馬町にある「魚十」。江戸時代中期、元禄年間に創業以来暫く、仕出を専門にしていた。その後時代の変化と共に仕出と料亭の業態を行き来し、最近では料亭をメインに、地元の人の胃袋を満たしている。そんな江戸料理の老舗である魚十第13代目の竹内氏の口から出てきた、インタビュー最初の言葉は次の通り: 「最初にお断りしておきたいのですが、ウチは一本筋が通った商売をしている訳ではありません。老舗の技術とか、秘伝とか、守っている味とは全然ありまえん。ウチはこの町に根付いた商売をしてきました。この町の人のために、店を続けることだけを考えてきました。この土地にあった料理をつくってきましたが、『江戸料理』なんて大層なものではありません」 通常、老舗と話をすると、秘伝の味とか、何百年変わらない製法、家訓などと言った話しになり、「変わらない」ことが美徳とされる。ところが、魚十はその全く正反対であった。「私の母は、大恐慌で大変な思いをしたのです。そのときは、他の飲食店の店員のまかない(注:従業員の食事)まで仕事として提供していたそうですから。 大正時代に、関西から呉服問屋が大挙して日本橋に来たそうなんです。そのとき、関西の方が「東京は味が濃い」っていったら、味を関西の方向けに薄くしたらしいんです。また第2次大戦後、日本料理だけでは駄目なんじゃないかと思い、兄なんて『べに花』に修行に行ったそうです。ですから、筋も何もありませんよ」 徳川家康が江戸に幕府を構える以前、小伝馬町周辺は千代田村と呼ばれ、奥州街道が通っていたそうである。そしてここは江戸時代から職人の町として賑わい、現在も多くの繊維問屋が店を構えている。魚十は、このような小伝馬町にずっと腰を据え、この町の人々の為に食べ物を提供し続けてきている。 「明治時代の後半までは、大丸がこの近辺にあったんです。そこに、料理部という形でウチが入っていました。ところが、あるときに区画整理が入り、江戸通周辺が変わりました。それで大丸は京都に引き上げたんです。大丸に入っていたときは、『大丸魚十』とよんでました。これが商売の中心で、それ以外に仕出も少し行っていました」 「創業当初は、仕出し専門。仕出と言っても、5〜6割作って、客のところに持っていって後は作ったり、客の台所を借りて作る場合もありました。大丸魚十の前まで、そうでしたよ。芝居茶屋なんかも客だったそうです。錦絵にもかかれてますよ。明治には料亭をしていたようですが、その後再び、仕出し専門に帰りました」 |
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Photos by Urban Heritage Chronicle
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魚十にとって、何よりも大切なことは味や技術を守ることではなく、「次の世代に繋げる」ことと、「地元に貢献する」こと。伝統の味を受け継ぐより、その時代の客を喜ばせることが重要なのである。例えば、昼に人気のあるメニュー「小町弁当」を注文してみる。期待してお膳を見ると、エビフライ、鶏の唐揚、煮物、刺身、ご飯、味噌汁。所謂「江戸料理」ではなく、普段我々が普通に口にしている食事である。当然、味は格段に美味しいし、ボリュームもある。ただ、伝統が感じられる訳ではない。 魚十は、関東大震災、第2次世界大戦で大きな被害を受けている。ところが、自身が立ち直るのすら大変なときでも、地元の人に貢献することを第一に考えている。震災後、建物は残ったが、蔵は焼け落ちた。界隈も焼け野原になった。11代目は『食べ物がないと復興ができない。「まずは、おにぎりでも何でも、まずは食べるものを提供し、皆を元気つけよう」と考え、まず食べ物を出した。すると、皆「魚十で食べ物がもらえるぞ」と言って魚十に集まり、腹を満たした。「それが復興を早めるのに随分と助かったそうです。歌舞伎座の俳優なんて、仕事がなかったので、魚十の洗いものを手伝ったそうです」と竹内氏。 「戦後も大変だったと思いますよ。両親は私含め、6人の子供を育てなければなりませんでした。私は平泉に疎開していたのですが、3月10日の空襲で店舗は全て焼けました。戦後帰ってきたら、ゼロからの出発でした。一番痛かったのは、器やお重などが焼失したことでしたね」。蓄えもあったそうだが、貨幣価値が急速に減少してしまったそうである。それでも魚十は、地元の人を食べさせることを考えた。 「この店のいいところはね、とりあえず町の人を食べさせようと。震災の後も『バーン』と出て行って、何でもいいから何か食べさせよう、と。江戸っ子の心意気ですよね。これがこの界隈の心じゃないでしょうか。同じ下町でも、川を渡った浅草なんかではちょっと違うかもしれませんが」 勿論、魚十が全く江戸料理を無視している訳ではない。しっかりとした江戸風の味付けは心がけている。また代々親から子へ、子から孫へ伝わっているのが玉子焼き。焼き方と味はしっかりと継承している。玉子の味を損なわないように気をつけ、昔は甘いものがご馳走だった名残でちょっと甘めの味付けである。関西のダシ巻き玉子とは少々違う。 たが、魚十で重視しているのは、繋げるために、その時代時代のお客のニーズをよく聞くことである。魚十の客は、80%が界隈の問屋街から。そして20%は企業の接待。また、料亭と仕出の割合は8対2程度。地元客が多い魚十は、彼ら持つニーズには極力応える。界隈の人は重に『キチット入っている』ことが満足につながる。そして安心して食べられることが、客の喜びに繋がる。「お客様に、『魚十のものなら安心』と思ってもらうことが重要です。一本筋が通っていないからと言って、誰でも出来る料理ではありませんよ。味付け、盛り付け、材料。どんな人を連れて行っても大丈夫な店です」 竹内氏は続けた、「母と話したとき、ウチは味でなく、客を大切にして繋ぐことが大切だよねって話していました。お客さんに時々、『ああ、あってよかった』と言われるんです。でも、この2-3年の変わりようは凄いですよね。この界隈も、景気が悪くなり問屋が廃業したら、その後に大きなマンションが建った。ウチのお得意様の問屋が潰れていくので、キツイですよ。今はそんなマンションに住む人も結構来るので、メニューはなるべく季節のもの、家で食べられないものを出すようにしています。煮物とか良く出ますよ」 そのような状況で、伝統を守るプレッシャーは無いのだろうか? 「プレッシャーはないですけど、繋げなくてはいけないと思っています。父は12代の母に養子に来たんです。暖簾のプレッシャーはかなり感じていたみたいですよ。なんとかしなくてはいけないと。でも、暖簾は逆にありがたいですね。ブランドがあるわけですから。私は両親から、大きくしないでいいから、次の第に繋げろと、口を酸っぱくして言われました。母が12代目。そして、兄の息子が14代目です。秘訣はまじめにやることでしょうか。15代にも、キチンとした商売をしなさいと言っています。出すもの、サービスに自信を持って。実は、兄がもともと継いだのですが、早く亡くなり、私はピンチヒッターです。兄の子供に繋げたいですね、兄の思いを遂げさせたい」 「でも、15代と話すこともありますよ。あんまり味を変えるのは悪いのではないかって。折角江戸時代から続いているので、今江戸料理を勉強していますよ」 魚十に暖簾は無い。代わりに、のぼりが店頭にはためいている。型にはまらない魚十らしい。小伝馬町にその幟が見える限り、人々は何があってもお腹を満たすことができる。 (2005年7月5日掲載) |
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