ジュークボックス〜暖かく心に届く音
*この記事は2004年11月13日にデイリーヨミウリ紙に掲載された英文記事に翻訳・加筆したものを、同紙の許可のもと掲載しています。原文はこちらをご覧下さい
 
 

スタイリッシュな恵比寿ガーデンプレイスとは対照的な、その直ぐ脇にある古い住宅地。小さく古びたゲームセンターの前で、ある秋の晩、初老の男性が一人で佇んでいた。

彼はそのゲームセンターから流れる音楽に、気持ち良さそうに耳を傾けていた。そこで30分間程音楽を聞き入ると、そのゲームセンターの中に座っていた、このゲームセンターのオーナーと思われる男性に声を掛ける。「ジュークボックスからの音楽は幾ら聴いても飽きないですね」。オーナーと思われる男性は、小さく頷いた。

かつて様々な娯楽施設で活躍したジュークボックスは、今ではほぼ消え去ってしまた。場所だけでなく、人々の記憶からも消えつつある。この恵比寿にある遊技場「あそびば」のオーナー荒巻徳三氏は、このコインを入れてレコードを聴くマシン、ジュークボックスに人生を捧げてきた。

恵比寿ガーデンプレイスから、山手線沿いに一分も歩けば見つかるこのゲームセンターは、ピンボールや新幹線ゲームなど、40代、50代の人々の心に思い出として残るゲーム機がずらりと並んでいる。そんな中で荒巻氏が一番大切にしているのはジュークボックス。氏曰く、都内でも、キチンと動くジュークボックスは10台程度とのことである。

「先日原宿でジュークボックスを見つけたましたよ。でも、単なる飾りでしたね」と荒巻氏はがっかりした様子で語る。

第2次世界大戦では日本陸軍のメカニックだった荒巻氏は、戦後、「機械が好き」という理由で、エンジニアの道を選び、この世界に入った。ジュークボックスやピンボールを保守するエンジニアとして50年近く働き、今でもまだ現役である。

戦後、ジュークボックスはエンターテイメントの主役だった。日本に駐留した米国兵士は、基地近くのバーやレストランでジュークボックスにコインを入れ、音楽を楽しんだ。そこからジュークボックスは日本人の間に広まり、荒巻氏は毎日その保守に奔走した。「あの時代はジュークボックスにも私にも、もっとも輝いていた時期でした」と荒巻氏を振り返る。

戦中、戦後とエンジニアとして働いた後、約37年前に荒巻氏は独立。ジュークボックスやピンボールの販売、リース、保守をする会社をつくった。工場は自宅のガレージ。ブームも手伝い、事業は順調に軌道にのった。また当時は温泉地に遊技場が次々と生まれており、荒巻氏は、栃木県の鬼怒川温泉に支店を開いた。

日本におけるジュークボックスの歴史は1960年代に遡る。その時期、遊戯メーカーがRock-Ola社、Seeburg社、Wurlitzer社など米国の有名メーカーのマシンを輸入しはじめた。当初はこれらの米製マシンが市場を席巻していた。やがて日本メーカー数社が独自でジュークボックスの製造を始めた。大手のセガは、初めての国産ジュークボックス「Sega-1000」を作成、1962年に3000台販売した。

ジュークボックスに関して語る荒巻氏は、本当に楽しそうだ。「それぞれのメーカーに特徴があります。Seeburgのマシンは、音は他社と比べて良くありませんが、機械の造りが頑丈で良くデザインされているため、保守があまり必要ありません。Rock-OlaやAMIのマシンは、音が良い。セガの機械は安かったので、日本のレストランなどが好んで使用しました。残念ながら、これらのメーカーは、ジュークボックス事業から撤退してしまいました」

 


Photos by Wataru Doi


東京・恵比寿にある荒巻徳蔵氏が運営するゲームセンター
「あそびば」。そこにあるジュークボックスの前で。


荒巻氏お気に入りのジュークボックスの一つ。
Seeburg社のもの。


 
 

荒巻氏のゲームセンターにあるジュークボックスは、27年前に製造された、彼のお気に入りであるSeeburg社のもの。木製のキャビネットにシングル版レコードが40枚近く収納できる。ちなみに、同社の最上位機種は100枚シングル版を収納、200曲演奏できる。荒巻氏は自身が持つ20万枚のレコード・コレクションから選び、ジュークボックスに格納する。

ジュークボックス市場の縮小がはじまったのは、1970年代の後半に「スペース・インベーダー」が登場したあたり。これらに代表される新しい世代のコンピューターゲームが登場し、娯楽業界を侵食し始めた。荒巻氏も時代の流れに逆らうことはできず、ガレージ工場は現在経営しているゲームセンターに生まれ変わった。

変わって当初、荒巻氏のゲームセンターは子供で一杯だった。「毎日子供達が放課後、この場所に走ってきてゲームの前に列をつくったものです」と荒巻氏は回想する。ところが、ブームは長くは続かず、徐々に客も減っていった。すると、当時60歳半の荒巻氏は、ジュークボックスと過ごした日々を思い出し、ジュークボックスを倉庫から持ってきて、ゲームセンターに並べる。

今では週末になると、熱心な中年の男性達がこの場所を訪れ、ジュークボックスから音楽を流してピンボールを楽しむ、などという光景が良く見られる。しかし、あの黄金の日々は2度と戻ってこない。「ジュークボックスから利益を上げることは、もう無理ですよね。何度も流行のコンピュータ・ゲーム機と入れ替えようかと思いました。でも、少ないですが熱心なファンが、絶対に止めないでくれと許してくれないのです」と、ちょっと嬉しそうに語る。

ジュークボックスが存在する限り、荒巻氏は引退できないと言う。既に76歳になるが、愛する機械を調整する時の両手は、まるで魔法を掛けているような動きをする。「膝が悪いので、外出が一苦労です。ジュークボックスのオーナー達は、保守が必要になると、わざわざここまで来るまで迎えに来てくれます。ジュークボックスの保守ができる人は殆ど居ないのです」

今では、ジュークボックス向けのレコード針を提供するメーカーすら無くなってしまった。レコード針国内最大手のナガオカトレーディングによると、「ジュークボックス向けレコード針の知識を持った人はもう社内にはいない」とのことである。従って、荒巻氏は自分で針を作成している。

ジュークボックスの音を楽しみにこのゲームセンターに来る人は、大抵、リラクゼーションを求めている。それは、他の娯楽で得られるリラクゼーションとは別のもののようだ。「ジュークボックスに誇りを感じています。独特の暖かい音は、最新のデジタル機器では絶対に出せません。この暖かい音は何回聞いても疲れないのです。また、このレトロな見た目が、日常から開放してくれるのです」

荒巻氏には夢がある。「今、この場所を変更する計画をしています。現在はコンピュータ・ゲームも並べてありますが、将来的にはジュークボックスとピンボールだけにする。そして、カフェテリアを併設するのです。ジュークボックスから流れるお気に入りの音楽でリラックスし、何か飲みながらピンボールを楽しむ。40代や50代の人には天国のような場所だと思います」

荒巻氏は一通り話終えると、ジュークボックスにコインを入れた。選んだ曲は「Only You」。この曲をこんなにメロウに流せるのはジュークボックスだけであろう。

(2004年11月13日掲載)

 
     
 
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