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饅頭と共に日本の歴史を歩む〜塩瀬総本家第34代川島英子氏インタビュー | ||||
言葉の意味の解釈は様々で、正解はない。「老舗」という言葉に関しても、様々な解釈がある。50年で自らを老舗と呼ぶ店もあるだろうし、「200年は経たないと老舗と呼べない」という人もいるだろう。いくつかの辞書を調べると、「長い間、代々同じ商売をしている」という意味になるようだ。 しかし、饅頭で有名な「塩瀬」を老舗と呼ぶことに意義を唱える人は、まず居ないであろう。その起源は650年前、京都の室町に足利氏が幕府を置いた室町時代に遡る。創業当時に考案された饅頭の製造技術は、現在も塩瀬の看板製品に生きている。 ここで、塩瀬が歩んできた歴史と600年間続いてきた理由に関し、塩瀬の第34代当主、川島英子氏に話を伺った。 −まず、塩瀬の歴史を簡単にお聞かせ願えますか? 「塩瀬は林淨因(りんじょいん)という人物がはじめました。昔、お菓子は売るものでなく、お茶会に供するものとして作られていました。奈良で神社や寺などの行事で出していたのです。饅頭には庶民的なイメージがありますが、実際は違うのです。それはそれで身近になって良いことなのですが、饅頭は本来、高級なものなのです。挨拶でも、真・行・草(しん・ぎょう・そう)、とありますよね。『真』は畳にキチンと頭を付ける。『行』はひざまづく、『草』は会釈ですね。饅頭は『真』にあたるのです。特に塩瀬の饅頭はね。だから、営業にも『安っぽく売るな』って口を酸っぱくして、言っています」 「もともとの発祥は、中国饅頭です。中国では饅頭は神に奉げるものだったのです。室町時代から江戸初期まで、饅頭は庶民が手が出せるものではありませんでした。理由の1つに、砂糖が高級だったことがあります。もっとも林淨因のときは砂糖がなかったので、『あまづらせん』といって、つる草の汁を煮詰めたものを使っていたようです。庶民の食べ物になったのは江戸末期でしょうか」 「小豆を使った餡は、林淨因が最初に作ったのです。豆類は昔は高級で大切なものだったそうです。『晴食(はれしょく)』といって、大事なものでした。稲刈りが終わって、赤飯とか、ぼた餅とかを食べていました」 「日本人は小豆が大好きです。室町時代には小豆の『ごじる(汁粉)』がありまして、饅頭やうどん、そうめん等を小豆の『ごじる』につけたり、掛けたりして食べてたのです。昔は、これらの饅頭やうどん、そうめんは『点心』と呼んでいたようです。室町時代は饅頭は割って食べて、汁物を添えて出す。添え物は小豆のごじる、味噌汁、もしくは切粉です。切粉の切は、葱や生姜、ミョウガ、粉は山椒やニッキだったそうです」 「そんな饅頭を林淨因は、餡を入れて蒸かしました。これがお菓子の形、原型です。その前は点心、食事でした。今でも中国では饅頭というと食事ですよね。それで、餡は、小豆のごじるを煮詰めて餡にしました」 「5代目くらいでしょうか。林紹絆(りんしょうはん)が、中国に渡ってお菓子作りを勉強してきたのです。それが薯蕷(じょうよ)饅頭です。大和芋を擂って、米の粉と混ぜて作る皮ですね。もともと薯蕷饅頭は、中国の宮廷料理でした。今でも中国でこれを出しているのは、北京の宮廷料理レストラン数店でしょうか。薯蕷饅頭は今でも作り方は変わっていません。材料も当時と全く同じです」 −以前都内のデパートに入っている塩瀬のお店で、塩瀬では毎朝生の芋を擂り下ろしていると聞きました 「そうです。薯蕷饅頭では大和芋を使います。小麦粉を酒種で膨らませる酒饅頭とは違います。ウチでは毎朝、大和芋を擂り下ろすのです。饅頭を1日で何万個も作るので、それは凄い量の大和芋を皮をむいて、擂り下ろします。普通のお菓子屋さんではとてもそんなことはできません。それで薯蕷粉というものがあるのです。大和芋を擂ったものを乾燥させて粉にしたものです。それに水を加えて、『とろろ』にするのですが、そんなことしてお菓子を作っているところも多いですよ。ウチはそのようなことは絶対にしません。生の芋を1年中手当てします。農家も『塩瀬さんのために特別に取っておきます』といって、確保していただいています」 |
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Photos by Urban Heritage Chronicle
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「毎朝皮を剥いて、擂って、とろろ芋をつくる。それを米の粉に入れて、捏ねて仕上げます。これが難しいのです。塩瀬では、皮作りの責任者が35年、ずっとこの皮を作っています。それでも、季節によって芋の水気と粘りが違いますし、気温や天気、湿気によっても変わってきます。芋だけの汁気、粘り気でつくります。出来上がった種を『ぽーん』と叩くのです。尻を叩くように。その感触で丁度良い硬さになったかどうか分かるのだそうです。耳朶くらいの硬さが良いそうです。責任者の弟子が10年間皮作りをしていますが、1人前にはまだ時間が必要ですね」 「お客様は、『塩瀬の饅頭を食べると芋の香りがする』、『ただの柔らかさで無く、もちっとするのが良い』、とおっしゃってくれます。正直に、半製品を使わずに毎日丁寧に作るだけなのです。1日に何万個もつくりますが、全て手捏ねですよ。従って、職人を育てるのが大変です。今後も職人の確保には力を入れなければばなりません。彼らは通常、菓子学校を卒業して塩瀬に入ってきます。10年、20年とここで菓子を作り続ける職人は珍しくないですよ。ウチでは定年後も働いてもらいます。塩瀬の技術は習得が難しいから、彼らに来て教えてくれるよう、お願いしています。今、職人だけで30人います。芋の皮を剥いたりするのはパートさんにお願いしています」 −薯蕷饅頭は、昔のままの材料、技術で作っているとのことですが、一方で時代に即する、つまり変えて行く部分はないのでしょうか? 「32代目である私の父は、塩瀬饅頭をつくりました。現代に合わせたのです。昔は『宮様から塩瀬の饅頭をもらった』などと言って、1つの饅頭を切って食べていたのです。それを、そのまま1つで食べられるよう小さくしました。『志ほ瀬』の焼印も父のアイデアです。『塩瀬』とすると、縦長の饅頭になってしまうので、『志ほ瀬』として、丸い形でも焼印を押せるようにしました。それが塩瀬饅頭、つまり『志ほ瀬饅頭』です」 −小売をはじめたのは、川島さんの代からだということですが? 「私は、売り方を変えました。父の時代の32代では、塩瀬はまだ上流階級向けの商売でした。江戸では将軍の御用で、明治では宮内庁で御用達にしてもらう、そして昭和では軍隊がお客様です。それらのお客様が戦後、なくなってしまいました。そこで33代の母は、ブライダル向けが流行ると思ったのです。戦地から帰ってきた人たちが結婚して、子供を生み、その子達が結婚して、引き出物で多くの饅頭が売れると考えました。その予測が当りました。結婚式場が増え、関東近県の結婚式場400件に塩瀬の饅頭を扱って頂きました。ホテルもそうです。それで母の時代に延びました」 「でも、私の代からは少子化ですよね。母の時代は1世帯4〜5人子供がいましたが、私のころは1〜2人です。従って結婚も減り、式場相手の商売はジリ貧になると思いました。別のことをしなければいけないと考えはじめました。当時、小売はしていなかったのです。お客様が人から貰った饅頭を食べ、美味しいから注文したくなる。そして、包み紙を見て塩瀬に電話してくるのです。すると『欲しければ作っておくから。取りに来な』ってな感じで取りに来てもらっていました。父母の代は殿様商売だったんです。でもそれじゃね、って私は思っていました。店を持ちたいと思っていた。そうしたら、銀座の松屋さんがリニューアルするから、塩瀬にも出展して欲しいと、話を持ちかけてきました」 「松屋さんなら近いため、万が一売り切れても直ぐに持ってこれるので大丈夫かな、と思いました。それで出展をOKしましたが、1つ条件を出しました。父はかねがね『饅頭は出来立てが最高』と言っていたので、実演する場所をデパートの売り場に作って欲しいとお願いしました。そこでつくり、直ぐにお出しすれば一番良いお菓子が出せる。そしたら松屋さんには快諾いただき、実現しました」 「塩瀬の饅頭に対するニーズがあったのだと思います。昔、私が店にいるとき、北海道から来たお客様が『本まんじゅう全部頂戴』っておっしゃった。それで『ありがとうございます』と言ったら、『僕が子供のころに、お客が来るとお手伝いさんが塩瀬の本饅頭を沢山買ってきていました。お客が帰るとたまに饅頭が残っていて、それが楽しみで楽しみで。そんなことを思い出してここに来てしまいました』と。思い出に残っていたのです」 「で最初私が小売を提案したときは、職人や営業は皆、猛反対しました。当時は結婚式場向けの商売が最盛期でしてね、『これ以上作るの?』と言う感じでした。でも私に言わせると、必ず駄目になる。ですから、腕の良い職人を1人引き抜いて、別部門ではじめました。工場の隅に別の工場を作りました。で『そっちはそっちでやって』って。引き菓子とは場所を分けました。というのは、デパートへの出店には、生菓子などが必要となるので、一緒だとやりにくいのです」 「結果的に、今の売上げは小売の方が多いですよね。昔は90%が引き菓子でしたが、今は小売の方が多いです。松屋さんに出すと、他のデパートからも、出店依頼がきました。断れないので全て受けましたよ」 −歴史上の大きなイベントで、塩瀬はどのような影響をうけましたか?またどうして650年も続けられてきたのでしょうか? 「明治維新は影響が無かったようですね。塩瀬は御用達制度ができる前から宮内に入っていました。明治から大正にかけては大変儲かったそうで、銀座通りを2頭建ての馬車で通っていたという話です。また民間で初めて、自社ビルを建てたそうす。ところがそのビルは震災で焼けてなくなり、また戦争では爆弾が落ちて焼けました。ところが、工場だけは戦争で無事だったのです。工場はこの場所、築地にありましたが、ここは聖路加病院の傍だったので攻撃されなかったのです。母の話だと、米軍から『占領後、聖路加は陸軍病院として使うから、この一角は焼かない』というビラが撒かれたそうです。残念ながら、母はそのビラを捨ててしまったのですが。そのような経緯で、工場だけは免れました。運がよかったですね」 「でも、戦後2年間は砂糖も粉も何も無い。32代目の父は2年間、何もしなかったそうです。中には、サッカリンなどの甘味料を使用した店もあったそうです。また、大企業が塩瀬の看板目当てに提携を持ちかけたそうです。でも父は、サッカリンも使わなかったし、提携も全て蹴飛ばしました。そして材料が来るのを2年間、ひたすら待ちました。有名デパートからも店頭販売の話を持ちかけられたそうですが、『棚ざらしでは菓子は売れない』と父は断りました。結婚式所も結局、作ってから収めます。ですから新鮮なのです」 「あたりまえですが、止めないことでが大切です。そして真面目に続けること。先代から口を酸っぱくして言われているのが、『材料落とすな、割り守れ』です。材料落とすなというのは、質を落とすなと言う意味です。割りというのは配合です。塩瀬では、小豆を産地直送で使っています。米にも新米、古米、古古米とあるように、小豆も1年もの、2年もの、3年ものがあります。これが、小豆屋から買うと、1年ものに昔のをちょっと混ぜて売ってくる。これだと良い物が出来ないので、産地に出向いて、見て、直接買ってきます。出所が分からないものは絶対に駄目なのです。35代にも同じことを言っています」 「650年も続けていると、浮き沈みはつき物です。でも沈んだら沈んだなりの生活をすればいいのです。立ったままでは飛び上がれない。一回沈んで、屈伸してから飛び上がります。沈んだときは、飛び上がる準備なんです。悲観してはいけません。昔の夢を追ってはいけません。それで、絶対に止めない。あきらめない。饅頭1つでもいいから、菓子屋をやるのです。細々とでもやる。そうすると、自分の代でなくても、子供かも、孫かも、その次かもしれませんが、必ず上がります。自然の原理ですよね。沈んだら喜んでください。飛び上がるまでの準備ですから。そして次の世代に繋ぐのです」 「まじめに、キチンと美味しいものさえ、信念をもってつくっていればそれで良いのです。良くならない筈はありません。これは父母の戦争の経験から学びましたね。小さくなりましたけど、また盛り上げた。父がデーパートに出展していたり、サッカリンのまがい物をつくっていたら今は無かったでしょう。息子に言っています『野心をもつな。美味しいものをまじめにつくれ。暖簾を下げるな』と」 −例えば、あと350年たって、塩瀬が1000周年を迎えたとき、1000年間における川島さんのお役目はなんでしょうか? 「和菓子は日本の食文化の担い手です。従って、プライドと責任をもって、文化と技術を絶やさず、継承していくことでしょうか。技術を継承すること。昔のものを守り、時代にも即するようにすることです」 (2007年8月1日掲載) |
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